The Impression


1995年9月埼玉県川口市文化センター「リリア」5周年記念事業参画。
リリア大ホールに100号前後40点、その他10点、展示致しました。
その時に出展した作品を記念図録に納めたものです。


公子抄   1995年8月 詩人 新郷 久


猪口公子は鳥の眼で描く人だ。
人類の繁栄と逸楽を、生き物あるいは生命(いのち)という原初のレベルにおいて凝視(み)る。蹂躙と殺戮を繰り返してきた邪悪な文明を、人間の独善が生んだ矛盾として、鮮烈なイメージを構成して告発する。
十余年前の冷夏に、雨のなか巣から落ちた雛を偶然拾い上げた公子は、掌にいつくしむ。雛は生き返って微かになき始め、生と死の瞬間を、小さな生き物と共有した。「生きること以外に決して欲張らない動物たちのなんといとしいことか」と、公子の胸を高鳴らせたこの感性は長く彼女の思考の基調をなす。表情と泣き声だけで意志も情感も、愛も伝え合える。言葉を持ったことが人間の傲慢の始まりだったとすれば、これに過ぎる苦痛はない。
さて、作品を見てみよう。リアス式海岸の地図へのこだわりや、カレンダーの日付の数字の繰り返しは、旧い出来事のうちに新しい出来事の予兆を見るものか。
画面の一端を連なって駆け抜ける動物や鳥のシルエットが、妙になまなましい。それは単なる脱走ではなく、蹂躙したものを蹂躙し返していく亡命でもある。生き物の集まっていく先は、人間の追放された地球かもしれない。そこには私たちが目にしたこともない、美しい空や森や海があるだろうか。
世界が猥雑極まりないとしても、画面が饒舌になるのは気になっていたが、90年代に入ってからは、想念の美的形象化という技法を得て、音楽も聞こえてくる、めざましい作品を発表し続けている。アイデアと独創性とは違う。メッセージを描くことはできない。見るものの心に衝撃を喚起することである。
そして今年発表した「石の街」。突然の変貌に、悪評かまびすしかったという。しかし、私はこの絵にいたく魅かれる。柩とも教会とも思われるような大きな石ただ一つ。画面の光は消滅せず、発光することもなく、刻を止めて、痛んだ世界を告発し続けてきた魂がひたすら静かに眠っている。一睡のうちにモランディや鴨居玲、クラーベに会っているかもしれない。
眠りから醒めて、何を見、何を描くか。描くこと以外に決して欲張らない鳥に帰っていくとき、今日、希に志を持つ画家猪口公子の芸術は完結するだろう。

羽音
1991年/F130号
俯瞰
1988年/S80号
迷い鳥
1992年/変形80号
獣道
1984年/変形240号(2枚組み)

石の街
1994年/F100号
方舟漂流
1986年/F100号
空絵事
1992年/F100号
スペースボックス
1988年/F150号

サマータイム(あやとり)
1985年/F80号
ほころび
1989年/F20号
サマータイム(ジグソーパズル)
1985年/変形120号
鳥も来て
1992年/F6号

     
リアス式海岸便り
1984年/F150号